カフカ『城』感想
ある程度に読書に慣れてきて、その批評を読んでいたり、読書家同士で会話していたりする際に、何気なく登場しやすいのはカフカの『城』だと思う。カフカは数多くの、登場人物たちがどれだけがんばっても報われない「不条理小説」を綴ってきたけれども、とりわけ『城』はそのタイトルの簡便さ、そして想像しやすい建築的なビジュアルも相まって、不条理小説の代名詞としてよく用いられている印象がある。
そういった背景というか、先入観のようなものを抱きつつ、自分も『城』を手に入れて、読む気が起こるまで積んでおいたのだが、なかなか訪れなかった。単純にページ数が多く、また「つまらない」といった感想もよく聞くので、『城』に挑戦することへのメリットが見いだせなかったのだ。
しかし、いよいよその時期がやって来た。私事ながら、会社を退職することになった。『城』のあらすじを読めば、現代エンタメ的な「お仕事小説」と読み解けなくもなさそうだ。こういった「働きもの」は実際に読む側も従事していると話が進みやすいだろう。そう考えて『城』を読み始めた。
- 作者: フランツ・カフカ,Franz Kafka,前田敬作
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1971/05/04
- メディア: 文庫
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主人公のKは測量士で、舞台となる村に依頼を受けてやって来るのだが、手違いでその仕事がなくなってしまい、途方に暮れてしまう。そして住人たちの、正直いって興味の湧かない身の上話を延々と聞かされる。急速な場面転換と、誰が喋っているかも忘れてしまうほど長い語りとの緩急によって、主人公が人としておかしいのか、住民たちがどこかズレているのか、はてまて『城』を読んでいる自分自身が正気を失いつつあるのか、それすらもわからなくなってくる。
そんな中でも感じ取れたのが、仕事に執着することへの虚しさだ。Kの測量士という職業は、己を規定する上で大切な役割を果たしていただろうし、村を訪れる前はほとんど何の問題もなく日々を送っていたのだと思う。だけれども何かの間違いで測量士という仕事が無くなってしまったとき、アイデンティティはその強度ゆえにひどく悪い方向に作用し、雪だるま式に事が大きくなってしまう。
Kの陥った状況は、例えるなら交通事故のような必要悪に思える。確かに運転を免許制にして、エアバッグなどの安全機構を備え、交通安全キャンペーンを行えば、その確率は限りなく低くできる。しかし人が自動車を運転する限りはゼロにならない。測量士を含む仕事という自己認識を持つことは、仕事ができなくなった時の自己喪失という危険を背負う。もちろん、複数の仕事を持ったり、趣味に熱を上げたり、セミナーで精神を整えたりという手段はある。でも本質的には働き続ける限り問題は消えない。そうはいっても働かなければお金を稼ぐことはできない。誰かと豊かな関係を築くことも難しくなる。持て余した時間が人を狂気に変えるかもしれない。
そもそも、職業というプライドは必要なのだろうか? 文明開化以前、人は食べ物や家財を生産するためには、非効率なためにとてつもなく長くてつらい労働をする必要があったはずである。それに従事する自身を正当化するために、矜持という意識は必要だったのだろう。だけれども現代では、ワーカホリックによって生み出されるエネルギーよりも、リスク回避のため淡泊に生きるべきなのかもしれない。
そう考えさせるくらいには読者へ自己言及する小説だった。
余談だが、『城』を読み進めていた3月は一般的な決算期であり、当時勤めていた会社も売上や実績を伸ばすのに必死で、従業員は休むことなく働いていた。自分もその1人だった。早出と残業でくたびれながらも通勤電車に乗っては『城』の掴みどころのない話を追っていた。それはある意味でいい思い出だったのかもしれない。