あらびきミートいまは絶え
近所のスーパーからあらびきミート缶が消えた。
昨今における物流の混乱のためなのか、3日に1度足を運んで計4度確認しても陳列されていない。「あらびきミート¥218」の値札と中型のダンボールがなんとか入りそうな空間だけが残されている。そのとなりには同じ会社が出しているミートソース缶が並んでいることから、製造元が倒産したわけではないらしい。田舎の2軒目のスーパーは遠くて品目も価格もイマイチなので、そこまでわざわざ行くほどのガソリン代も時間も気力もない。
しかたなくミートソース缶を買い揃えてスパゲッティやオムライスを作ってみる。缶の中にはもちろんミートソースと、細かなタマネギとひき肉が入っている。しかし1cm辺のブロックの肉はない。スパゲッティやオムライスを食べても、皿の最後に残った肉片を掻っ攫うあの喜びは味わえない。いま死の淵に立ったら「あのときにあらびきミートを食べたかった」と悔やむことは間違いない。
よくある話だが、これは失って分かるモノのありがたみである。
スマートフォンが使えなかったり、電気が付かなくなったり、医療が受けられなくなったり、そういった類いのものである。もちろん自分もそういう体験をしてきたし人の話も聞いてきたつもりであったが、まさか「あらびきミート」にここまで思い入れがあって、メタな文章を綴るに至るまで影響を及ぼすとは考えていなかった。小さな肉片の有無にここまで精神作用があるとは、こういった事柄に対してどういう法則性があるのか、この気持ちの最小単位はどこまで切り刻めるのか、どこかに論考が存在してはいないだろうか?
よく見渡すと、スーパーには空列が目立つ。「綾鷹」はあってノンブランドのお茶はなく、クリームパンはあってチョコパンはない。店員不足か教育不足かシステム不全か、そういった場合も考慮したが、聞いてみても謝られるだけで理由は教えてもらえない。こちらこそ些細なことで時間を奪ってしまって申し訳ない。
あらびきミートいまは絶え。もはや必要ないよう変わるしかない。