人口知能の進展と化学分野における可能性
第121回触媒討論会の特別講演にて、松尾豊氏による特別講演を聴きました。教授およびシンポジウム運営に携わった方々には感謝の思いです。
じつは本業の工学研究と同等か、もしくはそれ以上に人工知能に興味を持っていました。そんな折にこのような機会に巡り合わせたということは、役得を超えて、運命的なものを感じた時間でした。
人工知能は日進月歩の世界で、書籍『人工知能は人間を超えるか』の中ではまだまだ時間がかかると予想されていた囲碁AIですが、あっという間に人間より強くなり、さらに先日には囲碁AI「DeepZenGO」は引退しました。”引退”というのは人に対して用いる言葉であって、コンピュータプログラムの場合には退役や停止という表現の方がふさわしいと思いますが、それほどAIが擬人化しつつある証拠ともいえます。
AI(Artificial Intelligence)について、自分は専門家でもありませんし、仮にそうであってもAIの全貌を説明するのは難しいようです。ただフィクションの世界では、高度コンピュータやAIが昔から登場していて、その描かれ方も様々なので、ゆえに多数のイメージは存在するかと思います。鉄腕アトム、ドラえもん、R2-D2、HAL9000、スカイネット、サマンサ、サミィ、エヴァ、Siri、Alexa、誰でも(どれでも)いいですが、問題なのはどのように向き合ってゆくか、ということです。
講演では、画像認識のディープラーニングによってコンピュータは「眼」を獲得し、それによって様々な物事を適切に処理できるようになった、と説明されていました。少し疑問だったのは、眼の獲得による情報処理精度が向上した原因が、単に新たな変数が増えたからなのか、さらにその先の「身体性」を獲得したからなのか、という部分です。誤解を恐れずにいうと、身体性とは人間が様々な情報を環境と照らし合わせる機能のことです。これを有していると、頭で考えていたことを実際に行動に移しやすくなったり、現実の出来事を適切に認識できるようになるらしいです。
どちらにせよ、研究・技術開発者の立場からすると、様々な情報を1人ないしはチームで処理しているところを、AIが介入してきて、問題が解決したりしなかったりするようです。問題が解決しないのは困りますし、あらゆる問題が解決しすぎると人間の仕事がなくなってしまいます。なので、もっとも困難な問題だけAIで解決するか、問題を人間とAIが融合して解決する、ということが都合として求められているようです。例えば、光を利用して水素を作る光触媒では、その材料選びに苦労しているようです。ゆえに光触媒の基本設計はAIが担当し、その実際の作り方、装置構造、運用方法などは人間が考える、という住み分けをした方がいいのかもしれません。また、ある新素材を人工知能で作ろうにもデータを入れることができません。なので、十分なデータを揃えるために人間が試験する、あるいはAIが論文や特許で学習するためにその情報提供をする、ということを人間は成すべきかもしれません。つまり上流か下流か、大枠か細部かという差こそあれど、今後も人間には似たような責務があるようです。
挙げるのが遅くなりましたが、自分が持つAIのイメージは小説『BEATLESS』に登場する超高度AIです。その作中の研究員のセリフが印象に残っています。紋切りの表現ですが、SFの世界が現実となり、そして自身が乗り越えなければならない時期は、そう遠くはないのかもしれません。
「かつて人類にとって、探求とは、世界と向き合って未踏の謎に挑む、すべてを賭けるに足る冒険だった。だが今や、超高度AIの背中を突き放されないよう必死で追いかける、終わらせてもらえないマラソンにすぎない」
(中略)
「だが、その程度の理由でやめられるなら、諦めてしまえばいい。それでも成功を求めるから、あらゆることを機械のほうがうまくやるようになってなお、人間が生きる意味がある」
(長谷敏司・小説『BEATLESS』より引用)