祖父の葬式
祖父が亡くなりました。満89歳でした。
原因は、まず肝臓に8cmほどのガンがありました(半年ほど前に発見)。もう手術や薬物治療が手遅れなのと、肝臓の機能が低下したことから他の内臓の機能も低下し、体内に水分が溜まってゆきました。水分が溜まると痛いので食事が取れず、そのために身体機能がますます低下してゆき、結果として多機能不全であの世へ逝きました。
二親等以内の死別は人生で初めての経験でした。しかし祖父とは生前からあまり話す機会がなくて、親戚一同が集まってもお互いに直接の会話はなかったですし、ある拍子に自分と祖父の2人きりになっても沈黙を貫いていました。
ということで、結構な身内の立場でしたが、感情関係の希薄さと、持ち前の観察癖をもって葬式をずっと眺めていました。
マナー知識がほとんどない自分ですが、祖父の葬式は浄土真宗の硬派な形で行われました。お経が読み上げられて、焼香をして、葬送の歌が詠まれて、略歴のナレーションが入りました。そして「大きな古時計」のピアノアレンジというか、ショパン風のBGMが流れる中、棺に花束を入れて、出棺、となりました。
祖父は桃が好きだったようで、彩られた棺の中に、用意されていた桃と、日記が入れられました。やっぱり日記を見ると、物書きの性なのか、普通の人よりも長く文字を追ってしまったり、その人の文章の法則性やリズムを探ろうとしたり、添削をしてしまいました。
そしてそれ以上に考えたことは、「自分の棺には”デジタル”を入れることができるだろうか?」です。ただでさえ、Twitterのつぶやきや、YouTubeの動画投稿や、Instagramの写真は電子化しているわけだから、棺という入れ物には入らない気がします。「納めた」という理屈が、どうしても成立しないわけですが、この辺りの”ネットとリアルの境界線”をいかに上手くまとめられるかが葬式業界の課題であり、そこを上手いこと解決した葬儀社が人気を得てゆくのかな、と想像していました。
改めて葬式は、人の魂をあの世へ導く行為だと思いました。魂は、今までは日記帳だったり、仕事の道具だったり、趣味の愛用品だったりに宿っていたかもしれませんが、これからはその人の意識が、どんどんネットに蓄積されてゆくのかもしれません。魂はどのようにして集められ、そして忘れ去られてゆくのか。ということを考えさせられた1日でした。