エレベーターはきわめて緩慢な速度で上昇をつづけていた。
おそらくエレベーターは上昇していたのだろうと私は思う。
しかし正確なところはわからない。
あまりにも速度が遅いせいで、方向の感覚というものが消滅してしまったのだ。
あるいはそれは下降していたのかもしれないし、
あるいはそれは何もしていなかったのかもしれない。
ただ前後の状況を考えあわせてみて、
エレベーターは上昇しているはずだと私が便宜的に決めただけの話である。
ただの推測だ。
根拠というほどのものはひとかけらもない。
十二階上って三階下り、地球を一周して戻ってきたのかもしれない。
それはわからない。
刻々と、修士論文の提出期限が迫ってきまして、そのために実験と執筆を行っています。
自分の知るところの理系大学生や、ともすると文系大学生も論文を書くのが苦痛だそうで、
裏を返せばその作業を完遂したときに達成感や多幸感を味わうことができるそうですが、
自分は何も感じません。心なしか。
もちろん、寒空の下で研究室(岐阜県多治見市の山奥)に通うのは身体的につらいですし、
どういう計画でもって実験をして、執筆をして、昼食をとって、他のことをして……と、
頭を働かせるのはいささか面倒なのですが、面倒という程度です。
大学を卒業する際に卒業論文を書いたという経験もあります(その時の感覚はない)。
ということで、空いた時間に修士論文を書き始めると、気がつけば
「こんな風にまとめたかったんだよね!」
と必要以上に共感してしまうような説明が記されていまして、嬉しいどころか、
このような話の流れの組み立て方をどうやっても思い出せないことに不安を抱きます。
当然、何も感じていないので何も思い出せないわけでありますが。
そんな状況で思い返すのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(村上春樹)
に登場する「計算士」の"私"です。この小説には数値解読というか、暗号処理を生業とする
計算士の組織があり、主人公はその一員ですが、その作業の仕組みを知らないのです。
(これ以上は当小説の核心に関わるので触れませんが、)
今の自分も結局は、自らの"意識らしきもの"をキカイとして用いているに過ぎず、
結果的に綴られた修士論文によって学歴が認められるという構図は、
あまり好んで受け取れるものではない気がします。
論文査読や、ひいては誰かの卒業認定の是非において、代筆や虚偽申請は問題外ですが、
さらなる困ったことは、その人の意識がどこまでクリアであるかということでしょうか。
しょせん、知識や思考力といったものは脳の電気信号なので、近い将来は大学なんて
行かなくても相応の代替能力を得ることはできると思いますし、
論文も、猿にタイプライター(今日ならタブレット端末か?)を渡せば、
いつの日かとてつもなく素晴らしいもの書き上げることができそうです。
つまり「知識や思考力や論文は無価値だ!」というとそうではなくて、
電気信号も猿も無意識な状態であり、その点は大学生の意識的な行動とはプロセスが
異なるため(結果は同じだが)、やっぱり大学の卒業には意味が見出せそうなのですが、
"意識的な"というところがポイントでして、意識的/無意識的をどう判別するかという
難儀が解答者(大学生)も採点者(大学教授)も解決できないあたりが、
いわゆる昨今の「大学生の質の低下」につながっていそうな気もします。
(つながっていない気もします。)
しかし考えようによっては、そんなブラックボックスにこそ中身が見えないゆえに
機密性が高くて扱い易いといいますか、まあまあの利用価値があるといいますか、
それなりの時間と訓練を経ての能力とも判断できますから、
卒業認定というのは妥当かもしれません。「癖ある馬に能あり」ということにしてください。
冒頭の引用文は『世界の終りとハートボイルド・ワンダーランド』によりました。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)
- 作者: 村上春樹
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