語りたいもの
近々、ちょっとした発表会がありまして、そのために資料と発表原稿を作っています。
以前から人前で喋ることがあまり得意ではなく、大学のゼミ内での発表でも緊張のあまり
内容をスラスラと説明できなかったのですが、それを補うために発表原稿を書くように
なりまして、今では説明したいことが大体そのまま伝えられるようになった代わりに、
発表そのものを怠けるようになってしまいました。
自分は発表原稿を書きながら、「先輩は発表原稿を用意しないんですか?」
と非難していた頃が懐かしいです。気がつけば、自分がそう言われる立場です。
でも先ほどの発表会は時間が限られているのでスムーズに説明する必要があり、
久しぶりに原稿を書き始めました。(その休憩にこの文章を書いています。)
“発表”原稿というところがポイントでして、つまりは声に出す文章なので、
普段の書き言葉表現や、主語―修飾部―述語構造を(多少は)無視しても良いわけです。
特に自分の場合は”それ”や”そして”などの“そ語”を多用してしまいがちなのですが、
口頭なら代名詞よりも元の名称を述べた方が分かりやすいですし、
“間”を置いて場面を区切ることができるので、接続詞はあまり必要なくなります。
そういう、一種のルール制限が解除された新鮮味を感じているところです。

それと最近、太宰治の小説を読みました。
発表原稿と太宰がどう絡むのかといいますと、句点(、)の付け方についてです。
自分の発表原稿の中では音声として区切った方が誤解の少ない場所や、
内容が並列関係の部分、また間を置くべきところに句点を打つようにしているのですが、
その理想型が、句点の多い太宰的な文章、という話です。
太宰の小説を深く読み込んでもいない自分からしても、
彼の文体は日本語のセオリーから遠ざかっているのに読みやすくて好きなのですが、
太宰の真似をして句点をやたらに増やしてもつまらない内容になり、誰も読みません。
なので普段の自分はあまり句点を打たないようにしているのですが、
発表原稿の中ではこれまた、ルール制限を解除して気持ちよく句点を付け加えています。
でも発表の中で一番に重要なのは、聞き手に対して丁寧な説明をすることであって、
語り手の自己満足ではダメなわけです。なのですが自分の中では
「次の一文は音感を重視したフレーズと語順で、句点も多めで独特に」
という風に語りたい気持ちとせめぎ合っているところです。