AYUTANINATUYA

20代の工場作業員だってこんなことを考えている

伊藤計劃への批判/映画『屍者の帝国』感想

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 映画『屍者の帝国』(2015)を見まして、感想を綴ります。

 

映画『屍者の帝国

"死者蘇生技術"が発達し、屍者を労働力として活用している19世紀末。ロンドンの医学生ジョン・H・ワトソンは、親友フライデーとの生前の約束どおり、自らの手で彼を違法に屍者化を試みる。その行為は、諜報機関「ウォルシンガム機関」の知るところとなるが、ワトソンはその技術と魂の再生への野心を見込まれてある任務を命じられる。

 それは、100年前にヴィクター・フランケンシュタイン博士が遺し、まるで生者のように意思を持ち言葉を話す最初の屍者ザ・ワンを生み出す究極の技術が記されているという「ヴィクターの手記」の捜索。

 第一の手がかりは、アフガニスタン奥地。ロシア帝国軍の司祭にして天才的屍者技術者アレクセイ・カラマーゾフが突如新型の屍者とともにその地へ姿を消したという。

 彼が既に「手記」を入手し、新型の屍者による王国を築いているのだとしたら…?フライデーと共に海を渡るワトソン。

 しかしそれは、壮大な旅のはじまりにすぎなかった。

 イギリス、アフガニスタン、日本、アメリカ、そして最後に彼を待ちうける舞台は…?

 魂の再生は可能なのか。死してなお、生き続ける技術とは。

「ヴィクターの手記」をめぐるグレートゲームが始まる!

(PROJECT-ITOH・『屍者の帝国』Introductionより引用)

 伊藤計劃の未完の小説を盟友・円城塔が引き継いで執筆した小説の劇場版です。ゾンビが当たり前となった世界観で魂を追い求めるという、センチメンタルな物語です。

 

 ちなみに原作小説について。

小説『屍者の帝国

 屍者復活の技術が全欧に普及した十九世紀末、医学生ワトソンは大英帝国の諜報員となり、アフガニスタンに潜入。その奥地で彼を待ち受けていた屍者の国の王カラマーゾフより渾身の依頼を受け、「ヴィクターの手記」と最初の屍者ザ・ワンを追い求めて世界を駆ける―伊藤計劃の未完の絶筆を円城塔が完成させた奇蹟の超大作。

(「BOOK」データベースより引用)

 まず原作小説からの改変がとても多いです。そしてその変更の中で1番大きなものは、主人公のワトソンとフライデーとの関係性に尽きると思います。小説でのワトソンは普通の医学生ですが、映画のワトソンと(生前の)フライデーは親友であり、ワトソンはフライデーを屍者化した“狂気の技術者”として描かれています。

 小説のワトソンはプロフィールが空欄であり、あまり魅力がないのですが、その分だけ他のキャラクターの動きを素直に受け取ることができ、言葉や魂といった難しいものの語り手としてとても優れています。一方、映画のワトソンには「フライデーの魂を取り戻す」という目的があるのでストーリーが読み取りやすい反面、展開がやや偏向的になっています。

 

 ちなみに原作小説も以前に読みまして、そのときの感想を思い出すと、「円城塔の小説」という印象を持ちました。つまりは伊藤計劃の序文から紡ぎ出した“二次創作”ではなく、伊藤計劃が初期設定したものを引き継いだだけで、完全に円城塔のオリジナルな物語である、ということです。伊藤計劃のファンからすると拍子抜けする内容かもしれません。

 

 しかし前述の通り劇場版には設定変更が加えられており、フライデーはワトソンの個人的な感情によって蘇らせられたことになっています。この構図は伊藤計劃円城塔の立ち位置、そして円城塔と小説『屍者の帝国』との関係に近くなっています。つまりワトソン(=円城塔)はフライデー(=伊藤計劃、そして『屍者の帝国』)を復活させ、魂を共に追い求めてゆく、とも妄想できてしまいます。

 そしてその仮定はこの台詞によって決定づけられます。

「ただ君にもう一度会いたかった。聞かせてほしかった。君の言葉の続きを」

 なので劇場版の見方の1つとして、メタ構造的ではあるものの、「伊藤計劃への追悼」は十分にあり得ます。

 でも『屍者の帝国』は伊藤計劃を徹底的に肯定しているわけではなくて、むしろ同氏の批判とも見て取れます。(ややネタバレになってしまいますが、)『屍者の帝国』はその物語の流れにおいて、『虐殺器官』や『ハーモニー』と同じように「意識の統一化」が成されようとするのですが、その行為に対してワトソンは以下の台詞を語ります。

「未来を作り上げるのは、美や崇高じゃない。誰かへの思いや言葉、それを実現しようとする、意思の力だ」

 結局、『虐殺器官』や『ハーモニー』でどれだけ分かりやすく人間の意識を語られても、受け取る自分たちは普通の人間であり、どれだけ悲しもうとも次の日はやって来ますし、やっぱり“意識のようなもの”は唐突に消えたりはしません。「それがなぜなのか?」と考えた答えの1つに、先ほどの台詞のような美や崇高といった小難しいものではなく、もっと簡単なものだと返すこともできます。

 もしも大切な人と再開できたとして、きっと喜びを分かち合うのでしょうが、加えて「あの後は大変だったんだよ」とか「あの事柄について君は間違っていた」とかなどと小言の1つや2つは伝えたくなるはずです。そして『屍者の帝国』は、伊藤計劃への文句の集まりだと思います。

 

 以下、細々とした感想の羅列です。

  • 小説からの改編はキャラクターの他に、中盤以降の物語展開にも及んでいる。原作小説の物語終盤の理解はとても難しかった印象があるけれども、劇場版の終盤展開の理解も引けを取らないくらい難しかった。原作未読派が見るには相当難しいと思う。原作をチェックした人はその微妙なズレで余計に混乱すると思う。複数回見たり、ブックレット等での情報を補完したりするが必要である。
  • 劇場版PVを見た時点でワトソンとフライデーとの関係がホモセクシャルっぽくて少し嫌だったけれど、本編ではむしろ、純粋な魂の探求をする姿がどうしても外見上それっぽく見えてしまうだけなのかな、と思った。
  • 映像美はとてもよかった。ちょっとしたキャラクターの仕草も、メカの動きも、ロンドンや日本の街中背景もとても作り込まれていた。そして特に屍者の動きがよかった。ゾンビが個々で映るときは普通の作画だが、複数体や集団で映るときはCGで描かれている。通常のCG描写は不自然だけれども、その不自然さを逆手にとることでゾンビやネクロウェアの不気味さを上手く表現している。 
  • 屍者の帝国』は冒険活劇としての側面も備えていて、物語の展開上さまざまな場所へ移動するのが映像背景として都合がいい。パイプオルガンを弾くシーンはまさに絵になっていてよかった。反面、伊藤計劃円城塔の持つ「言葉へのこだわり」感はやや薄まってしまっている感覚だった。
  • 劇場版ではハダリーが都合のいい便利キャラになってしまっている……小説を読んでいると行動の1つひとつに意味合いが増していてよかったけれども。あと胸がでかすぎる。
  • 屍者の帝国』と似た内容の物語は、人それぞれ思い浮かべるものがあるだろうが、個人的には『鋼の錬金術師』を挙げたい。「第一期ハガレン」「旧鋼」の方です。『シャンバラを征く者』と同じ感覚で見ることができてよかった。
  • 屍者の帝国』を製作したWIT STUDIOの現時点の最新作『甲鉄城のカバネリ』とは、「ゾンビパニック」や「スチームパンク」といった共通点がある。また歯車や機械のレバー、霊素注射器といった数々のガジェットの作り込みも同じである。結構気に入っているので次回作にも登場させてほしい。